パクリのうたが聞こえてくるよ……ゲロッゲロッ


 


朝の校内放送とやらで、近所の小学校から月替わりで音楽が流されるんだが、今月の歌は、卒業式のシーズンということだろうか「記念樹」にちなんだ歌である。「校庭の隅にぃ〜、みんなで植えた記念樹ぅ〜」という歌で、どこかで聴いたことがあるな〜と思っていたのだが、ふと思い出した。フジテレビでやっていた(やっている?)『あっぱれさんま大先生』の主題曲だったあの歌か。あー懐かしい……と思いながら、毎日聴いていた(うちの家から校内放送がよく聞こえるんだ、これが)んだが、よくよく聴いていると、ブリジストンのコマーシャルで流れていた「どこまでも行こう」にメロディがそっくりではないか。そっくり……というよりもまったく同じだ。この「記念樹」の歌に合わせて「どこまでも行こう」を歌えるくらいだ。もしかしてこれがあの盗作騒動の歌か?とふと気が付き、ネットで調べてみたところ、やはり作曲は服部克久で、この「記念樹」が訴えられた件の歌であることがわかった。
「服部克久」(Wikipedia)

次のページには、服部氏側の言い分が載っていた。
「記念樹裁判について」
「音楽が音楽の3要素である、旋律と、和音と、リズムによって成立している」から「結果的に両曲の音の重なりのみを取り上げて」問題ありとするのが問題だということらしい。
もっともらしい理屈をつけているが、メロディがそっくりであれば、リズムが違っていてもオリジナルとは言えないんじゃないか。かつてベートーヴェンの「エリーゼのために」を編曲して「キッスは目にして」などというタイトルでコマーシャルでしつこく流されていた曲があったが、あれなんかは雰囲気もオリジナルと全然違っていて醜悪な音楽になっていたが、聞いている方はあきらかに「エリーゼのために」を意識するだろう。
「別れの曲を作るのに、あんな元気な何処までも行ってしまうような曲を参考にしたと考えることが、いかに無理なことか」などとものたまっておられるが、「キッスは目にして」の例を取り上げるまでもなく、「そのようなことは当たり前のように可能である」と断言できる。こういうことを平気の平左で公言する音楽家に「恥知らず!」と言ってやりたい。「バクったけど……それが何か?」くらいのことは言ってほしいものだよ。プロフェッショナルとしての矜持ははないのか。意図的にやったかどうか(たぶん意図的ではないのだろうが)は別にして、似ているのがわかった段階で放棄するのが筋ってもんである(言われるまで気が付かなかったとしたら、それこそ音楽家として大問題だ)。
それからパクリの問題が出ると必ず本歌取りとかパロディとかいう言い訳が出るが、本歌取りと言えるのは明らかに原曲を意識させる要素がある場合で、しかも原曲が周知の場合に限られるはずだ(「キッスは目にして」なんかはこれですね)。またパロディと言えるのは、原曲の方が重い(評価が高い、有名などの)場合に限られる。上野茂都が「京葉水滸伝」という曲の中で「街の灯(あか)りがとても綺麗ね浦安」などとやっているのが好例だ。「京葉水滸伝」と「ブルーライト横浜」じゃあぜーんぜん知名度が違うもんね。
今回の場合のように、(コマソンと放送番組のテーマ曲という)立場的にも同等な上、しかも原曲を暗示するような要素がまったくなく、さりげなく流用されているのだから、こんな言い訳成り立つわけがない。
最高裁でも結審したものをこんなところで今さら蒸し返すのもどうかと思うが、毎朝、件の曲を聞かされているものでちょっとエキサイトしてしまった……。

投稿日: 金曜日 - 3 月 24, 2006 10:58 午前          


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