純粋な、批評の批判


(写真と本文は関係ありません。)

昔、黒澤明の映画が好きだという人と話す機会があって、そのときに相当険悪なムードになったことがある。というのは、彼がクロサワ作品をことごとくベタボメする(『夢』とか『素晴らしき日曜日』までだぞ)んで、こちらもガマンできなくなって、多くのクロサワ映画は感性が欠如していてクサくて見るに堪えないということを言ってやったわけだ。もちろんすべてけなしたわけではないよ。『七人の侍』とか『椿三十郎』あたりは私も高く評価しているので、それはきちんと表明したのだが、彼にとっては黒澤明は神でその作品はすべてが最高らしく、ちょっとでも批判されることが我慢できないようなのだった。そのときは、他にも人がいたため殴り合いになるようなことはなかったが、その後彼は、別の黒澤好きな人とばかり話をするようになって、私の存在を完全に無視するようになったのだな。ハハハ。
だが言っておくが、A氏よ!(仮にA氏としておきましょう、この人を)
どんな芸術家でも、すべての作品が素晴らしいということはないのだよ。私は美術も好きでいろいろな展覧会にも行ったりしたが、モネやルノワールの駄作もたくさん見てきた。ベートーヴェンにだって駄作はある。それは見る(または聴く)側が自分の目で見、耳で聞いて自分の頭で考えれば、誰にでもわかることだ。映画でもそうだ。私は小津安二郎の映画が好きだが、それでも素晴らしいと言えるのはやはりほんの一握りである。半分以上は駄作だ。だが傑作が数本でもあれば、それだけで素晴らしい作家と言えるんじゃないか。「千に一つの名品のことを佳作と呼び、万に一つの名品のことを傑作と呼ぶ」というような話をかつて現代国語の先生から聞いたことがある(正確かどうかわからない)が、数十本のフィルモグラフィの中で、万に一つの名品が2本あればそれだけですごいことだと思う。
たぶんA氏は、いまだにクロサワ大好きなのであろうが(もう20年以上も会っていないのでね)、自分の頭で考えないといつまで経っても進歩しないよ、とこの場を借りて言っておこう。

本やCDをネットで販売している「アマゾン」にカスタマーレビューというコーナーがあって、いろいろなシロートが批評を書いている。以前はなかなか鋭い評が多いなと思っていたのだが、実際にそのCDや本を聴いたり読んだりしてみると、内容がまったくピントはずれということが結構多いことに最近気が付いてきた。
実は私もカスタマーレビューに何度か書いたことがあるため、同様の批判は受ける可能性が十分にあるわけで、あまり大きなことは言えないのだが、でも少なくとも自分の目や耳で見たり聴いたりして、自分の頭で考えたことを書くというのは最低限のマナーじゃないかなと思う(現に私はそうしてるし)。このカスタマーレビューを読む側は当然、そのCDや本を聞いたり読んだりした人が書いていると思っているだろう(少なくとも私はそうだった)。ところが実際は、まったくいい加減な聞きかじり評や予想だけで書いた期待評が多いようだ。そもそもまだ販売される前のCDにレビューが付くというのがおかしい。「期待で☆5つ」などと書かれていると「君の期待をここで表明して何になる?」とつっこみをいれたくなる。それは「レビュー」ではなく「プレビュー」ではないかい?

先ほどのクロサワの例みたいに、自分の頭で考えていないものも結構ある。批評家がよそで言っているようなステレオタイプな内容を、何のてらいもなくぬけぬけと書くなんてのは恥ずかしいことだ。そういう批評は、たとえうまく書けていたとしても、正しい評価ができていない。知性は十分でも感性が足りないということだ。批評というのは感性を表明する場だとここで宣言することで、これを自戒としたいと思う。

投稿日: 水曜日 - 12 月 20, 2006 07:05 午後          


©