思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける(大宅世継)

批評、随筆、芸術のアーカイブ・サイト……竹林軒

今月のケシカラン その1

英語の歌詞について思ふ

保守 一徹


 年末に紅白歌合戦なんというものを久しぶりに見た。10年ぶりぐらいかのう。それでな、新聞で歌のリストを見て驚いたんじゃが、横文字の歌手が半分以上おる。英語の歌も半分以上じゃ。紅白歌合戦ちゅうのは日本の大晦日を彩る恒例行事だと思っとったが、ずいぶん国際化したもんじゃ、これも時代の流れかのう、なぞと考えながら放送を見てびっくりしたぞ。ほとんどが日本人じゃないか。歌っとる歌も、タイトルがアルファベットでも中身はほとんどが日本語じゃ。ところどころ英語の詞が混ざっとるがのう。
 わしゃ、今時の流行歌なんぞあんまり聴かんでな。ついぞこんなことになっとるなぞ知らんかったが、紅白見とってな、こりゃおかしいと思ったわけじゃ。聴いとって意味が全然わからんのじゃ。詞なんちゅうもんは、聴く方がわからんでも、まあそりゃあそれでええわな、ある程度はな。解釈は、聴く方まかせっちゅうこともあるわな。じゃが、英語を使うっちゅうのは、解釈云々以前じゃないのか。端から意味を伝えるっちゅう役割を放棄しとるとしか考えられん。それとも、この詞を作ったやつは外人向けに詞を書いとるんかのう? その割には、大事なところは全部日本語じゃし、英語もへんてこりんな英語じゃしのう。よくわからんぞ。
 少し前まではカタカナ言葉、要するに外来語が氾濫しとるっちゅうて問題になっとったが、今はそれどころじゃのうて、英語自体が氾濫しとるんじゃ。それも、使うとる方もようわからんような使い方をしとるんじゃ。聞いとる方はもちろんわからん。
 そもそも詞を書くなんちゅうのは、誰かに何かを伝えたいちゅう前提があるはずじゃ。伝わるかどうかは別にしてもじゃ。こういう歌を書くやつは、英語を使うて自分の心情が表現できると言うんじゃろうか?
 わしだって、なんでこんなふうになっとるかは大体検討がついとんじゃ、本当はな。作っとるやつらが、アメリカの流行歌にあこがれとるからでな、アメリカが理想郷なんじゃ、あいつらにとってはな。じゃから、あこがれの理想郷の言葉を入れることがかっこいいと思うとんじゃろう。聴いとる感触だけアメリカの流行歌に似せとるっちゅうことじゃ。結局それが今みたいな無国籍で奇っ怪な音楽を生み出す土壌になっとんじゃろう。つまり、歌詞がおざなりにされとるっちゅうことじゃ。ばかげたことよのう。
 じゃが一方でな、流行歌も良い方向に向かうとると思わせる歌も出てきとる。若い歌手でも、歌詞の内容そのものを伝えようとしとるものがいくつかあった。何でも前よりは増えとるっちゅうことらしい(孫によるとな)。なんでもまがい物が増えて主流になっとる時代(特に流行歌でな)に、本物を目指すっちゅう方向性が良い。
 昔の歌が全部良いとは思わんし、英語を入れるのがすべて悪いとも思わん。表現の可能性は広いほど良いのはわかる。じゃがのう、ちゃんと伝わる言葉で詞を書くっちゅう前提条件が無かったら良いもんなんか生まれる余地はないじゃろう。本当に全世界で評価されたいと思うんじゃったら、ブロークンな英語なんぞ使わんでな、ちゃんと表現できるものを書くことじゃ。わしの老婆心じゃ。もとい、老爺心じゃ。

(談)