思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心ちしける(大宅世継)

批評、随筆、芸術のアーカイブ・サイト……竹林軒

「竹林軒出張所」選集:本

『新明解国語辞典』と言えば、赤瀬川源平の『新解さんの謎』でお馴染みのあの「新解さん」ではないか。学校という場で「新解さん」を奨めるというのが僕にとってははなはだ意外だった。

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そういう私が久しぶりに本を買った。『蔵書票の美』という本で、これは、「特定の人にとって役に立つ5%の本」に入る。

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図書館自体の存在は非常にありがたいものなのだが、利用者の中には心ない人間もいるようで、本に書き込みされてたりすると相当な不快感に襲われる。

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「竹林軒出張所」選集

新解さんと岩波さん


 子どもが今年とある高校に進学することになったが、その高校の新入生向け推奨辞書リストの国語辞典の項に『三省堂新明解国語辞典』と書かれていた。
 『新明解国語辞典』と言えば、赤瀬川源平の『新解さんの謎』でお馴染みのあの「新解さん」ではないか。学校という場で「新解さん」を奨めるというのが僕にとってははなはだ意外だった。『新明解国語辞典』はとかく奇抜な記述が多いという印象で、娯楽として使用するならともかく、教育現場で使うのはどんなものなんだろうと思う。そういうこともあって『新解さんの謎』をもう一度読み直すことにした。
 『新解さんの謎』では、奇抜な記述を紹介するだけでなく、例文についてもさまざまなツッコミを入れて、さながらテレビのバラエティ番組のような面白半分的なおちゃらけで終始していて、かつての『超芸術トマソン』(赤瀬川源平著)のようなキレは残念ながらない。それに、本文の中であれやこれやツッコんでいた例文は、多くが既存の小説(『三四郎』や『高野聖』、『路傍の石』など)から採られたものであり、各項の例文同士に因果関係はない。そのため、さまざまな例文から『新明解』の著者の人格を想像しようとするのもあまり意味があるとは思えず、したがってこの本のように、例文を使ってはしゃいでいるのも、一種のワルノリみたいに思え、正直なところ読んでいてシラけてしまうのだ。むしろ、この辞書でこれだけいろいろな文学作品から例文を集めてきたという、そちらの労力の方が気になったくらいだ、本当のところ。とは言え、例文はともかく、やはり各項目の記述は少し奇妙ではある。たとえば本書で紹介されている「恋愛」の項。

恋愛:特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態。

 正直言って(こちらも)ワルノリが過ぎるという印象である。
 僕が高校に入ったときに国語の教師から激しく推薦されたのが『岩波国語辞典』であったことを考えると、『新明解』が推奨されている現状はまさに隔世の感がある。ただし僕自身は当時、『岩波』をわざわざ買ったりせず、中学生のときに買った小学館の国語辞典をそのまま使っていた。そのため教師に「君は岩波を使わないんですか?」とたびたび皮肉を言われ、嫌な思いをしたものである。今だったら「家が貧しいので新しいのが買えないんです」くらいのことを言い返すところだが、当時はまだおとなしかったからただ黙っていた。それにその教師のこともあまり好きではなかったし。
 で、ともかく先日、書店の辞書売り場に行ってみたんである。そうするとなんと『新明解国語辞典』が大量に平積みになっており、『岩波』は棚の隅に1冊残されていただけだったのである。そのうえ、『新明解』には「一番売れている国語辞典」というキャッチフレーズが付いていた。子どもに(売れている)「新解さん」を買い与える気はさすがに起こらなかったので、僕は1冊しか残されていなかった『岩波国語辞典』をわざわざ買ったのだった。こういうもの(つまり『新明解』)を奨める教師に対する反発も心の中にはあったのだ。教師に「君は新解さんを使わないんですか?」と皮肉を言われ続けるかも知れないが、良くないと思うものをわざわざ与える親はいないだろう。だからまあ、そういう意味では良い選択だったのではないかと思っている。もちろん子どもには、自分の高校時代の話を伝え、皮肉を言われる可能性は示唆しておいた。一方で、偏屈な人間を親を持つと、しないで良い苦労もしてしまうのだな……と、自分のことは棚に上げてしみじみ思った春の夕暮れなのだった。

追記:現在『新明解国語辞典』は第七版で、『新解さんの謎』で紹介されているのは第四版までである。この新明解辞典であるが、版を追うごとに内容がかなり修正されているため(そのあたりも信頼が置けない理由の1つである)、かつてのようなおちゃらけた記述が残っているかどうかはわからない。興味のある方はご自身の目でご確認ください。

2012年3月、記
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「竹林軒出張所」選集

蔵書票


 本を買わなくなって久しい。
 以前は、本が崇高であるみたいな信仰があって、手に取ってみてちょっと面白そうだったら買うという馬鹿げたことを繰り返していた。つまり衝動買いである。おかげで、家につまらない本が大量に集まってきた。このとき気付きましたね。ほとんどの本はつまらないということに。控え目に見積もっても本屋にある本の90%はゴミである。残りの本のうち5%は特定の人にとって役に立つ本、さらに残りの5%が多くの人にとって役に立つもしくは面白い本である。
 そういう私が久しぶりに本を買った。『蔵書票の美』(樋田直人著、小学館文庫)という本で、これは、「特定の人にとって役に立つ5%の本」に入る。実は以前借りてとばし読みしており、その上で買ったのだから、これを買って損をすることはないのだ、自分としては。
 そもそも蔵書票とは何か。ほとんどの人にとって、おそらく一生、目にも耳にもすることはないものであろう。蔵書票というのは、自分の蔵書であることを示すために本の見返し(表紙裏)に貼る紙で、自分の蔵書であることを示す文言が入ったものである。蔵書印と同様のものと考えると良い。昔、本が貴重であった頃にヨーロッパで広まり、やがて、文字だけでなく絵も入れられるようになった。木版画や銅版画、印刷術などを利用して多数製作されており、デューラーほどの有名人も作っているんで、存在自体はメジャーだったんだろう。今でも熱心な蒐集家がいて、「紙の宝石」などと呼ぶ人もいるらしい。
 というようなことが、『蔵書票の美』に書かれている。だから興味のない人にはまったく役に立たない情報なのである。ではあるが、蔵書票について広範に渡り記述されているので、参考書としては非常に有用である。
 「なぜに参考書?」と思われた方もあるかも知れないが、先日私も蔵書票を作ってみたというわけです、銅版画で(図参照)。一部伏せさせていただいていますが、その部分の直前にある「ExLibris」という言葉がラテン語で「〜の蔵書」を意味する言葉だそうで、「ExLibris 名前」のように入れるのが一般的な決まりのようだ。いずれにしてもチョ〜マニアの世界であることには変わりない。
 こうしてアップロードしたものを見ると、銅版画もなかなか味わい深いなと、文字通り自画自賛している私であった。できあがったものは文庫本に貼ってみたが、文庫本みたいに表紙がぺらぺらだとなんともこころもとない。やはり蔵書票は豪華本に限る。

2009年6月、記
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「竹林軒出張所」選集

ハナゲから推し量る利己主義


 「本は借りて読んでから、面白かったら買う」という方針を決めてから久しい(上記『蔵書票』参照)。そのため、図書館は今の僕にとって欠かせない存在である。
 ただ、図書館自体の存在は非常にありがたいものなのだが、利用者の中には心ない人間もいるようで、本に書き込みされてたりすると相当な不快感に襲われる。ひどいのになると写真や図版が切り抜かれているものもある。しかもカッターかなんかで非常に丁寧に切られている。切った人間はその切り抜きを大切にするつもりで切ったんだろうが、そういう心づもりがあるのなら公共物である本自体に向けてほしいものである。
 こういう人間に対してはかなりの反感を持っているので、本当は「このバカは」とか「このアンポンタンは」とかいう言葉を使いたいくらいだが、このブログの品格を損ねることになるので、ここでは極力落ち着いた調子で書きたいと思うが、おそらくこういう「人間」は、ゴミなんかも平気で路上に捨てたりするような「自分さえ良ければそれで良し」というタイプの人種なんだろうと思う。そのくせ自分の家はきれいにしていて、人が少し汚そうものなら烈火のごとく怒るような、すこぶる付きの利己的な人間だと勝手に推測している。おそらく、書き込みや切り抜きをする人間は図書館利用者のごく一部なんだろうが、1人でもいれば、その被害はその本の利用者全員に及ぶわけで、こういう公共意識や倫理観が欠如した人間には、図書館に近付いてほしくないと切に思う。もちろん僕の周辺にも近付いてほしくないのは言うまでもない。
 さて、書き込みや切り抜きでもこれくらいむかっ腹が立つものなんだが、今借りている本『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』には、怒りと言うよりあきれ果てるほどの所業が施されている。ちなみにこの本は値段が4000円近くもする本で、図書館で借りて読むのにピッタリというものである。上巻はすでに図書館に入っていて以前読んでおり(竹林軒出張所:『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上』を参照)、下巻が図書館に入るのは長いこと心待ちにしていたもので、それがつい先日入荷するという運びになった。そういうわけで、急いで予約を入れて、先日やっと僕の元に届いたという新刊である。ところが新刊であるにもかかわらず、前に借りた人間がひどい所業を働いているのだった。
 最初は何かよく分からなかった。189ページの下の方に、何やら短い毛のようなものが付いており、当初はあまり気にしなかったのだが、その後のページもその後のページも約40ページに渡ってほぼ毎ページに2、3本、多いページには4、5本ずつ同じような箇所に付けられている。中には白いものもある。何ページ分かは払い落としたのだが、ページにくっついていて簡単には落ちないようになっている。何かの毛か……と思いながらふと思い至った。これはハナゲに違いない! 長さから行ってきっとそうだ。しかもページにくっついているという点から考えると、鼻水が接着剤代わりになっているのではないか……そう結論付けた(汚い話で申し訳ない)。白いものが混ざっている点を考えると、年の頃は40代以上で、しかも音楽好き(クライバーの本だから)。この毛はページの下部にまとめて付いているところを見ると、おそらくこの年配の男(この厚かましさは男に特有のものだと思う)は、この本を読みながら鼻毛を抜き、それをご丁寧に、各ページの下部にわざと貼り付けていったのではないかと、ここまでは容易に推測できた。
 本を読んだりすれば、髪の毛が落ちたり、あるいは鼻毛が落ちたりすることもあるだろう。そういうことにいちいち目くじら立てたりはしないが、意図的に公共の本を汚したとなれば話は別である。こんなことを平然とやるくらいなので、おそらく家族からも同僚からもあまりまともに相手にされていない人間なんだろうと思うが、とにかく「こいつには今後二度と図書館の本に触ってほしくない」と心底願うくらい、僕はこのことで著しく気分を害したのである。この約40ページ分は、ページを開くのも嫌なくらいだったが、下の方に触れないようにしながら、なんとか昨日やっと通過できた。まったく胸くそが悪くなるような話である。ちなみにこの本は、市立図書館の本である。興味のある方はご自分の手で確かめていただきたい(そんな人はいないと思うけど)。

2011年2月、記
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